在日本朝鮮人文学芸術家同盟

〈民族教育と朝鮮舞踊 2〉民族舞踊教育の始まり

《朝鮮新報》2021.03.06

農楽隊の活動の様子(解放新聞1956年2月23日付)

在日同胞社会では、なぜ舞踊が盛んなのか? この問いを受けるたびに私は、民族教育がまずあり、その中で体系的に朝鮮舞踊を教えているからだと答える。

解放後の啓蒙活動としての舞踊

祖国解放直後、日本各地において国語講習所の形態で始まった民族教育は、1945年10月15日の在日本朝鮮人聯盟(朝聯)結成後には本格的に行われるようになった。当時は同胞たちの民族意識を啓蒙するため、朝鮮語や歌と踊りを通して朝鮮人としての自覚と自負心を高めることが急務であった。驚いたことに46年2月、朝聯主催の同胞慰安大会では戸塚学院の児童合唱隊30人が出演し、6~7歳の児童たちが赤いチョゴリに青いチマを着て、歌を歌い蝶のように踊ったという記録が残っている。児童学芸大会や解放1周年記念演芸大会などでも舞踊が披露されたそうである。

この時期にはすでに、地方巡回慰安隊の公演が同胞たちへの啓蒙活動として行われていた。慰安隊は後に文宣隊、文工隊となるのだが、中央文宣隊は在日朝鮮中央芸術団(金剛山歌劇団の前身)、地方文宣隊は地方歌舞団になっていくのである。

朝聯は中央高等学院12期を芸術学院とし、民主青年同盟(民青)文工隊指導者育成の履修内容に、民族舞踊の技術を主とする舞踊も含んでいた。文宣隊、文工隊の活動は青年たちをはじめ、学童や女性に至るまで広まり全国的に盛んに行われた。

国語講習所は初等、中等教育に発展し、年2回ほど行われる文化祭や学芸会では遊戯や体操舞踊、農楽を踊っていた。舞踊を教える教員がいなかったため、教員講習では舞踊や遊戯を教えてほしいとの要望が高かったという。

40年代後半からは祖国の映画や写真を通して、飛躍する祖国の舞踊芸術への憧れと「祖国に学ぼう」という機運が高まっていった。

中央文宣隊の練習風景(解放新聞1955年6月23日付)

1世舞踊家の活躍

民族教育と同胞たちの民族啓蒙活動のため、解放直後から1世たちが舞踊を教えた。

張飛氏は46年に発足した在日本朝鮮芸術協会会長を務めた音楽家で、ダルクローズのリトミックを民青文工隊に教えた。また50年から7年間、北海道から九州まで全国各地を回りながら、ウリハッキョ初級部を中心に日本の学校に通う子どもたちや青年、婦人たちにも朝鮮の歌と踊りを教えた。リヤカーにオルガンを載せ、同胞部落を訪ねては「愛国歌」や「人民共和国宣布の歌」、「新アリラン」や「ニルリリヤ」などの音楽と舞踊を通じて、朝鮮人としての誇りをもつよう熱心に活動した。

1世舞踊家の趙鳳喜氏(中央)

1世の舞踊家には金長安、趙鳳喜氏がいた。

金長安氏は、枝川部落に住みながら東京第2初級、東京中高などでの依頼を受け、学生たちに民族舞踊を教えた。在日朝鮮舞踊家の草分けである任秋子氏は中学生の頃、李美南氏は小学生の頃に金長安氏に師事して朝鮮舞踊を習った。中央芸術学院舞踊科長、朝鮮中央師範専門学校講師、朝鮮大学校「学校舞踊」講師、芸術学院講師などを務め、金長安舞踊研究所を設立し中央芸術団の公演にも出演した。ファンも多かったらしい。文芸同結成時には初代舞踊部長を務め64年祖国に帰国した。「僧舞」や「鳳山タル」舞踊組曲「帰国船」などバレーから古典舞踊、創作舞踊まで踊り、教えたという。

趙鳳喜氏は東京・大田区で「国際藝術研究所」を設立、47年には「在日本朝鮮人文化団体連合会」に加盟している。神戸朝鮮舞踊研究所を設け学生や教員、同胞女性たちにも舞踊を教えた。50年代後半には榊原学園(東京舞踊学校)で朝鮮舞踊講師を、60年代初期まで東京・大田をはじめ7カ所の女性同盟舞踊サークルを指導、舞踊サークル指導者養成講習会の講師などで朝鮮舞踊を教え60年代に帰国した。「景福宮打令」や舞踊劇「春香伝」「沈清伝」などを神戸の研究所発表会で披露し、朝鮮民主主義人民共和国創建記念文化祭にも特別出演している。女性同盟中央顧問の金一順氏は中央師範専門学校で金長安氏に舞踊を習い卒業後、東京第11初級(現西東京第1初中)の教員時代、子どもたちに舞踊を教えるため榊原学園に入学して趙鳳喜氏に朝鮮舞踊を習った。当時の同胞たちは民族的なものを渇望し、朝鮮舞踊を熱烈に受け入れたという。学校では舞踊劇「フンブとノルブ」「密陽アリラン」「輝ける朝鮮」「帰国船」、農楽舞などが踊られていた。

同胞たちの間で50年代にもっとも盛んだったのは、農楽隊の活動だった。農楽隊は学校建設運動や民族的権利の獲得、祖国統一支持、朝・日親善など社会的運動や募金活動を掲げ全国的に活躍した。

59年からの帰国事業は、在日朝鮮舞踊にとっての大きな転機となった。

帰国船が新潟に入出航する時、すでに結成されていた中央芸術団をはじめ、埠頭を埋め尽くす同胞たちは「金日成将軍の歌」や「オンヘヤ」、農楽などを踊った。また、帰国船内で祖国の舞踊家たちによって、本場の朝鮮舞踊が初めて伝授された。崔承喜著「朝鮮民族舞踊基本」の教本と映像フィルム、民族楽器や舞踊衣裳、小道具、舞台美術品なども送られてきた。

朝鮮舞踊の基本動作と祖国の舞踊作品はその後、在日2世舞踊家たちによって民族教育を中心に一気に普及していった。

民族性を取り戻すための舞踊活動や教育は、同胞組織という畑で、1世たちがまいた種に祖国の支援と配慮が滋養分となり、大輪の「朝鮮舞踊の花」を咲かせたのである。

(朴貞順・朝大舞踊教育研究室室長)

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