在日本朝鮮人文学芸術家同盟

〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 3〉

朝鮮学校とムチ(우리 학교와 회초리)

《朝鮮新報》2020.06.24

コラージュ:沈恵淑

今年の2月初旬、両親のお墓参りで京都に行った。お墓は琵琶湖を望む、比叡山の山裾にあるびわ湖霊園にある。半年ぶりに両親が眠るお墓に挨拶した後、友人に会うため京都駅に向かった。東九条まで戻るとまだ30分ほど時間があったので、この機会にと思い5歳まで住んでいた家の近くにあった京都朝鮮第1初級学校(当時、京都第1朝鮮人小学校) 跡を見に行くことにした。幼い頃の記憶をたどって学校跡を探してみたが、景色が様変わりしていてよくわからなかった。

京都朝鮮第1初級学校跡を探したのにはワケがある。実は1952年4月から1年間、この学校に通ったことがあり、懐かしかったからだ。

私が4歳になった1951年の夏のことだ。ウリ学校の前にあった公園に、毎日ランニングに半ズボン姿で、風船に公園の水道水を入れて水鉄砲代わりにして遊んでいた。ウリ学校は、この公園を運動場として使っていたと記憶している。

ある日、いつものように公園で水遊びをしていると、私の前に見知らぬ男の人が近づいてきて「朝鮮の子やな? どこに住んでるんや?」と声をかけてきた。私が「朝鮮部落」と答えると「そうか。아저씨(アジョシ・おじさん)は朝鮮学校の先生や。先生を家に連れてってくれるか」と言うので家に案内した。家に着くと先生は母としばらく話を交わして帰って行った。先生の苗字は朴だと記憶している。 その日、母は仕事から戻った父に先生の話を伝えて、どうするのかを相談した。そして、私に「来年から朝鮮学校に行って勉強するんやで」と言った。小学校に入学するのは2年先のことだったが、両親は私が遊んでいるより学校に行く方が安心だと思ったらしく、1年早く通わせることにしたらしい。こうして5歳を目前にした1952年4月、ウリ学校に入学した。

授業が始まると박선생님(パクソンセンニム・朴先生)は「トンムたちはこれからソンセンニムと一緒にウリ学校で勉強するんだよ」と言うと一人ずつ名前を呼んだ。みんな大きな声で「イェー」と答えた。それから1年間ウリ学校で学んだが、今はその時に何を習ったかをほとんど思い出せない。朝鮮語も習ったはずだが、頭の片隅にあるのは縦棒に横棒、丸や四角があったということくらいだ。記憶に残っているのは、教室に金日成将軍の肖像画があったこと、2階の教室の真ん中を1階から太い柱で支えていたこと(記憶に間違いがなければ)、そして朴先生から1学期中회초리(フェチョリ・ムチ)の洗礼を受けたことだ。フェチョリで打たれたのは悪さをしたからではない。私が左利きだったからだ。

入学当初、私は文字や絵を左手で書いていた。弁当も左手で食べた。朴先生はそれを見るたびに、持っていたフェチョリで私の左手の甲をバシッと打った。手に激痛が走り、みみずばれのように腫れた。あまりの痛さに泣きながら右手に持ち替えた。そういう日々が夏休み前まで続いたが、おかげで右手で書いたり食べたりできるようになった。その後、フェチョリの洗礼を受けることはなかった。

今でこそ学校でのフェチョリの使用は体罰にあたるので禁じられているが、当時は家庭や学校における子どものしつけや、お仕置き用として普通に使われていた。朝鮮の長い歴史の中で、子どもの教育方法の一つとして「伝統化」された「フェチョリ文化」は、当時ウリ学校でも正当化されていたようである。

親の中にも、先生たちに正しい道徳教育と指導を行ってほしいという思いからフェチョリの使用を肯定した人も確かにいたようだ。数発のムチで子どもが過ちに気づき、直すことができるなら「愛のムチ」も必要だという主張である。

感動や喜びがあれば、人は自らの意志で学び行動するものだ。生きる喜びや感動、それを感じさせることのできる教育を施すことで、子どもたちの夢と愛と信念を育むのだ。夢や愛、信念の種子は、人の心の中にしかない。その種子から芽を出させ根を伸ばすのが、まさに教育の仕事なのだ。これを体罰などで強制的に植えつけることができるだろうか。

今、ウリ学校の教育は、体罰としてのムチではなく、心を動かす「情」という「ムチ」を武器に教師と学生、学父母が一体となる人間教育を実践している。

民族教育の目的は、朝鮮人として生きていく力と意志を育むことにある。そのためには、在日の子どもたちに「朝鮮人としての尊厳」の大切さを体得させ、それを守る意志と力を持たすことが重要だ。自己の自主的な考えと意志を育み、人間社会に貢献できる力と人間力を備え、人生を自らの意志と力で切り開いていく知、徳、体を兼ね備えた人間を育てる教育こそウリ学校が実践している教育なのだ。

この教育の根幹にウリマルがある。子どもたちの、朝鮮人としての自覚と誇り、自主的な考えと創造力、人間力を育む武器、それがウリマルなのだ。

京都朝鮮第1初級学校で過ごした1年間の一番の思い出、それが회초리(ムチ)だ。

1953年3月、太秦への引っ越しでウリ学校には1年間しか通えなかった。

회초리(ムチ)の語源

회초리とは、萩や柳の木のように細くてよく曲がる木の枝のことです。회초리の회は、現代語の「회/휘」と同じ語で、「ぐるぐる回る、フラフラする」という意味です。회は古語の횟돌다(휘돌다、ぐるぐる回る)、회로리바람(회오리바람、竜巻)などで見られます。また휘は휘다(曲がる)、휘돌다、휘두르다(振り回す)などの単語で見ることができます。초리は獣の尻尾を意味する言葉です。16世紀の代表的な詩人鄭澈(1536~1593)は、1580年に創作した詩歌「関東別曲」で은같은 무지개 옥같은 룡의 초리(銀色のような虹、玉色のような龍の尾)と歌っていますが、この초리は꼬리(尻尾)のことで、現在でも馬の尻尾の毛を말초리と言っています。このように회초리は本来「ぐるぐる回る尻尾」を意味していましたが、萩や柳の木の枝が馬や牛の尻尾に似ているところから、この枝を회초리と言いました。초리が「細いもの」という意味を表す単語に눈초리があります。눈초리は、耳に近い目の細い方の端を指します。「目尻」のことですね。

(朴点水・朝鮮語研究者)

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