在日本朝鮮人文学芸術家同盟

〈民族教育と朝鮮舞踊22〉朝鮮民主主義人民共和国 教授・芸術学博士・功勲芸術家の称号

〈民族教育と朝鮮舞踊22〉朝鮮民主主義人民共和国 教授・芸術学博士・功勲芸術家の称号

《朝鮮新報》2022.12.08

祖国で出版された本(左-碩士論文『在日朝鮮学生たちの民族性教養と民族舞踊教育』 右-博士論文『在日朝鮮人たちの民族舞踊を通した民族性教養についての研究』

私は1975年から朝鮮大学校教員として働いてきたが、研究の面ではいろいろな悩みや葛藤を持ち続けていた。舞踊の授業や学生指導、課外活動で舞踊部の学生たちを教え、芸術公演があるときには舞踊作品を創作・指導しなければならない立場にあって、自由な祖国往来ができなかった時代には、独学で舞踊学や舞踊理論を勉強し、実技も学生たちの模範となる水準に達しなければならなかった。教育の質は教員の高い資質によって担保される。とにかく必死で授業を準備し、朝鮮舞踊の基礎・基本を習得するための練習を重ねた。文学部で文芸理論や創作理論、作品分析など、文学を通して学んだことは力強い糧となった。

朝大では創立当初から、若い教員の資質向上のための学術研究と学位論文執筆についての施策を検討し、74年に2年制の研究院(日本の大学院相当)が設立された。しかし、私は研究院を経ず師範教育学部の助手となったのである。

指導教授のリ・マンスン先生(平壌音楽舞踊大学舞踊理論室室長2011.9)

時代の要求と在日朝鮮人運動発展のために学術研究を一層深め、学士(当時は日本の「修士」相当)・博士を体系的に育成することが急務となる中、金正日総書記は朝大教員たちの科学理論水準を高めるため、78年1月に金日成綜合大学に通信博士院制度を設けるよう指示された。通信博士院に入籍した教員たちは次々と学位論文を書き、国家的な学位論文審議に合格したが、すでに家庭を持ち、子育てをしている私にとっては夢のまた夢であった。何ヵ月も祖国の博士院に登校して学位論文を執筆し審議を受けることなど、到底無理だとあきらめるしかなかった。

ところが、90年代に入り博士院は登校授業を受けるだけでなく、往復書簡形式による論文も指導を受けられるようになった。これならできるかもしれない―。

私は科学研究部長の助力もあり、97年に平壌音楽舞踊大学博士院への入籍が叶った。指導教授はリ・マンスン先生である。リ先生は平壌音楽舞踊大学の舞踊理論室室長(准博士・副教授)であり、数々の舞踊理論書や教科書などを執筆された舞踊理論分野の第一人者であった。まだ会ったこともないリ先生に、私は自身の履歴とそれまで独学で行ってきた研究や論文の要旨などを綴った長文の手紙を送った。リ先生は、在日朝鮮人舞踊活動についての研究は資料集めや整理が難しいので、先ずは民族教育の中での舞踊教育について体系化すれば、すでに実践の中で小論文などを書いている私には書きやすいのではないかとアドバイスを下さった。

上段左から-教授証、博士証 下段左から-名誉称号証書(功勲芸術家)、博士徽章、博士メダル

私が初めて祖国の博士院に登校したのは99年8月であったが、その間、すでに論文は何度も海を越えて行ったり来たりしていた。笑い話だが、初登校の時、女性だとばかり思っていたリ先生が男性だったのはびっくりした。そして2000年9月に論文審議を受けて、同10月9日に芸術学学士(現在は「碩士」)学位が授与された。学位論文は、祖国の文学芸術総合出版社から単行本として刊行された。

それから7年後、私はかねてから構想をあたためていた、在日朝鮮人舞踊活動の歴史を博士論文として書くために、金日成綜合大学通信博士院に入籍した。当時、平壌音楽舞踊大学博士院はすでに無く、朝大教員たちの通信博士院は金日成綜合大学博士院が窓口になっていた。

私がこのテーマにこだわったのは、在日朝鮮人舞踊活動について理論的に纏めた人がいなかったこと、それなのに当事者以外の研究者が在日舞踊活動について論文を書こうとする傾向が目立ってきたからであった。在日朝鮮舞踊活動の主人公は、在日朝鮮人舞踊家であり同胞である。私たちのルーツや生き様、活動の本質を理解せずして語ることはできない。在日朝鮮人として舞踊活動に携わってきた私が書かなくてはならない、との使命感であった。リ先生は当初、在日朝鮮人舞踊活動について論文を書くことには少し消極的だった。後で分かったことだが、祖国でも当時はまだ舞踊分野での博士がおらず、日本での舞踊活動についての指導を困難に思われたようだ。それでも、よく決心したと親身になって指導してくださった。

博士論文を書くための資料収集や整理、聞き取りには膨大な時間と忍耐力が必要であった。舞踊は公演などの舞台芸術、その場限りで終わってしまう時空間芸術でもあるので、資料は乏しく、昔の記録などもほとんど残っていないため、資料集めだけで3年近くを費やした。また、博士論文の審議はハードルがとても高く、途中で何度も断念しようかとも思った。仕事を終えて家に帰って家事をし、いつも11時から夜中の2時まで論文を書いた。それでやっと5本の小論文を祖国の専門雑誌『朝鮮芸術』や朝大の『学報』に発表し、書籍(2.16芸術教育出版社2012.12.20発行)も出版することができた。

学位論文審議を終えて(左から平壌音楽舞踊大学教務課長、博士院院長、リ・マンスン室長、カン・グァングッ学部長 2000.9)

そうして2013年8月28日、私は芸術学博士になることができた。9月にあった万寿台議事堂での授与式の時は感無量であった。残念ながら指導教授のリ先生は体調を崩され、11年以降は指導も受けることができず、審議や授与式には参加できなかった。

祖国では、国家学位学職授与委員会が教授と博士の学位・学職を審議し授与する。また最高人民会議の政令によって名誉称号を与える。私は95年に功勲芸術家の名誉称号を、13年には芸術学博士の学位、16年には教授の学職を賜った。07年11月に平壌で行われた「全国知識人大会」と08年9月の「国家学位学職授与制度樹立60周年記念報告会」には代表団の一員として参加することになった。

平凡な在日朝鮮人として生まれ育った私には身に余る栄誉である。決して実力や業績ではない。祖国の配慮と信任、先生方の指導のおかげであることを深く胸に刻んで、その恩恵に報いるために精進を重ねていかなければならないと考えている。

朴貞順(朝鮮大学校舞踊教育研究室室長)

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