在日本朝鮮文学芸術家同盟

韓在淑 音楽家人生の歩み

1932年12月10日 済州道北村里海洞で生まれる。

1945年 解放後、済州市内建入洞に移り住み、初めて見たピアノという楽器に 強く感動し、音楽に関心を持つようになる。 特に伽倻琴の響きに、先祖達の深い悲しみを 聞き、音楽に思いを傾け始めた。

1948年 済州四・三事件の非常事態が起こり、急遽 日本の大阪に移住を迫られる。 1950年 大阪音楽学校(現 大阪音楽大学)に進学し、声楽、そして作曲を専攻した。 初めはオペラ歌手として活動を開始し、ヴェルディ「椿姫」のジェルモン役でデビュー。 しかし歌手としての活動だけでは、民族の痛みを表現するのに限界を強く感じ、在日文化芸術家達を率い 定期演奏会を開催、 民族音楽を発表し始める。祖国の民謡を管弦楽曲に編曲しりなど、聴衆に民族的自尊心を与える ことのできる高い水準の音楽になるよう、心血を注ぐ。

1953年より 西今里中学校(のちの中大阪朝鮮初中級学校)の音楽講師として教鞭にも立つ。 1956年 西今里中学校創立3周年記念公演として、オペラ〈沈静伝〉を演出家及び音楽監督、指揮者として日本初演。

西今里中学校音楽室にて

西今里中学校/生徒たちに囲まれて

歌劇〈偉大なる朝鮮人民の勝利〉

〈沈静伝〉の一場面

京都朝鮮中高級学校吹奏楽部を指揮

1970年〈不滅の歌〉の一場面

1958年 アンサンブル〈偉大なる朝鮮人民の勝利〉、オペラ〈洪吉童伝〉、舞踏劇〈ホンジとパッチ〉をそれぞれ 演出、及び音楽監督(日本初演)。

1962年 「朝鮮歌曲の夕べ」を初開催。

〈テドンガン筏漕ぎの歌〉、〈朝鮮舞曲〉、〈農舞歌〉等、殆どが日本初演であった。 この頃より京都朝鮮高校、大阪朝鮮高校にて師範科と音楽の教師も始める。 1967年〈密林よ語れ〉、1970年〈不屈の歌〉等の多くの作品を演出し、自ら出演もした。 彼の民族音楽への情熱は、南と北を区分しなかった。

1967年〈朝鮮音楽の夕べ〉を開催し〈沈清伝〉〈クムナンの月〉等を編曲、〈現代コリア創作オペラの夕べ〉の タイトルで、京都フィルハーモニーを指揮し、日本初演をはたす。

1970年大阪万博記念コンサートでは、柴田睦率いるアンサンブル「√S(ルートエス)」を指揮し、金玉成作曲〈カンタータ鴨緑江〉を日本初演する。 その間多数のオペラ(オペラ〈古譚〉、創作オペラ〈修善寺物語〉、〈和尚と小僧〉等)にもバリトンのソリストとして出演。

創作オペラ〈古譚〉

創作オペラ〈修善寺物語〉

民音音楽研究員たちの合唱

1981年「アリランの夕べ」

1970年大阪万博記念コンサート

1970年〈不滅の歌〉の一場面

1978年5月「金芝河の詩による歌曲と合唱の夕べ」開催。在日同胞一世が徐々にこの世を去り、日本で生まれた 二世の音楽家達の活動が活発になって行く中、その二世たちを中心に、「在日民族音楽研究会」を組織する。 そして1981年より今日に至る迄「アリランの夕べ] のシリーズを 開催し続けてきた。

1977年現代朝鮮合唱曲演奏会

1978年5月「金芝河の詩による歌曲と合唱の夕べ」

1980年オペラアリアとフォーレ「レクイエム」音楽監督、指揮。

1982年第二回の「アリランの夕べ」は大阪(関西フィルハーモニーオーケストラ)と東京(東京フィルハーモニック オーケストラ)で開催され、自身が編曲、音楽監督、指揮をした。 俳優米倉斉加年、詩人金時鐘、作家梁石一らも参加したこの公演は、LPレコードと後にはCDで発売される。

2016年〈済州民謡の祭典〉

崔永燮作曲 オペレッタ〈曇林池〉

1985年〈洪蘭波の歌曲による夕べ〉開催。

1993年南北コリア作曲家達の歌曲と室内楽曲での「アリランの夕べ」が引き続き開催されて行った。

1994年以降 初めて、故郷を自由に行き来出来るようになってから 済州民謡を収集し研究を重ね、 2002年11月 大阪で[済州民謡の祭典]を開催。海女の歌、ノヨンナヨン、オドルトギ等 長い歳月の間、多くの試練を 乗り越え生活して来た済州道民の 深い人情と風習、喜びと悲しみを素朴に歌った民謡の数々が演奏された。

2000年11月珍島で行われた「2000 アリランの祝典」では音楽監督として、ナショナルシンフォニーオーケストラを指揮し〈アリランファンタジー〉を演奏した。

2012年崔永燮作曲 オペレッタ〈曇林池〉音楽監督として日本初演。

2016年大阪と2018年済州島にて在日そして韓国ソウル、済州および在米の世界的な歌手たちと共に 〈済州民謡の祭典〉開催。

2018年韓在淑作曲 歌曲〈望郷済州〉が、韓国春秋社より出版される。 以降 多くの世界的歌手達に愛され、世界各地で公演される。

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