在日本朝鮮文学芸術家同盟

〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 5〉

お使いと新聞配達(심부름과 신문배달)

《朝鮮新報》2020.09.02

コラージュ・沈恵淑

小学校4~6年生の頃、嵐電に乗って四条中新道の朝鮮の乾物屋によく심부름(シンブルム・お使い)に行った。太秦から西院まで電車で行き、そこから朝鮮の乾物屋までは歩いて行く。명태(ミョンテ・メンタイ/スケトウダラ)や풋고추(プッコチュ・青トウガラシ)、고추가루(コチュカル・トウガラシ粉)、콩지름(コンジルム・豆もやし:콩나물・コンナムルのこと)、마늘(マヌル・ニンニク)を買いに行くのだ。スケトウダラを干して乾燥させたのを북어(プゴ・北魚)・건태(コンテ・乾太)と言うが私たちはミョンテと言っていた。

ミョンテはいつも20匹、束で買っていた。ミョンテを持っていると周りの人からいつもじろじろ見られたが、朝鮮人長屋で鍛えられたからか気にもならなかった。時々、朝鮮のハンメやアジメに出会うと「お使いか。小さいのにえらいな」と声をかけてくれるのでうれしかった。

母はこの頃、よく막걸리(マッコルリ・マッコリ)を造っていた。長屋ではマッコルリのことを탁배기(タッペギ・濁酒)と言った。

母がタッペギを仕込む頃になると、梅津まで麹を買いに行かされた。麹を買った後は、太秦の駅の近くにあるパン屋にイースト菌を買いに行く。母は、それを蒸した米と一緒によくかき混ぜて仕込みを終えた後、押入れの中に入れて毎日2~3回かき混ぜながら発酵させていた。数日するとお酒の匂いが押入れの中から家中に漂う。タッペギができあがると、父はミョンテをつまみにしておいしそうに飲んでいた。

母は、고추장(コチュジャン・トウガラシ味噌)も手作りしていた。私たちは普段반찬(パンチャン・おかず)がないのでご飯によく醤油をかけて食べていたが、コチュジャンがあるときは母に、「コチジャンもらうで」と言ってご飯に混ぜて食べていた。こうして自然と명태や탁배기、풋고추、고추가루、고추장(子どもの頃は고치장・コチジャンと言った) 、반찬ということばを覚えた。

4年生が終わる頃、私は学校の勉強だけでは物足らなくなった。いろいろなことがもっと知りたくなり学習事典が欲しくなった。事典を買うにはお金が必要だということで、春休みに入るとすぐ新聞配達を始めた。

新聞屋は家から自転車で15分ほど行った所にあった。新聞屋には朝は4時半、夕方は4時までに行く。1カ月で3千円もらえた。母と相談して給料は自分の小遣いにしても良いことになった。最初の給料で本屋さんに行き学習事典を買った。2800円だった。念願の事典を手にしたその日、うれしさのあまりお釣りをもらい忘れて家に帰ったことを今もよく覚えている。

事典で勉強するようになると国名や首都名、国旗をすぐに覚えた。毎日、事典を見ているうちに日本地図や世界地図、世界歴史、世界の文化にも興味を持つようになった。事典には学校で習ったことと違ったことも書かれていた。どうして違うのかが知りたくて学校の図書館によく足を運んだ。

新聞配達をするようになってから毎日、新聞を読むようになった。担当区域の太秦から梅津一帯を配達しながら新聞を読むことが多かったので、1時間余りで配達できるところを2時間もかかったり、配達するのを忘れ抗議の電話で再配達したことも一度や二度ではなかった。新聞から得た情報や知識は、私の学習意欲をいやが上にも高めてくれた。成績もどんどん上がっていった。

高学年になるとクラス対抗のソフトボールやキックボール(野球をサッカーボールかドッジボールを使って行う遊び)でクラスのキャプテンを任されるようになった。徐々に朝鮮人であるという劣等感から解放されていった。すると不思議なことにクラスで私をいじめる子がいつの間にかいなくなった。

小学校の卒業式を2カ月後に控えた1960年1月、家族は左京区市原に引っ越すことになった。私は父と相談して、小学校を卒業するまで新聞配達を続けながら新聞屋で寝泊まりすることにした。

新聞屋の1階の奥には木俣という同級生の女の子と、その家族が住んでいた。卒業前に女の子の両親から家に招待されて一緒に食事をすることになった。食事をしながら、自分は朝鮮人で本名が朴であること、卒業後、朝鮮学校に行くことなどを話した。励ましの言葉ももらった。

そんなこともあってか、クラスであった卒業後の進路発表会では何のためらいもなく「僕は朝鮮人です。本名は朴で、卒業後、北白川にある京都朝鮮中高級学校に行きます」と堂々と発表することができた。

人は自信がないと劣等感を持ってしまう。しかし、劣等感をバネにして自分を変えることができれば思いがけない力を発揮することもある。そのためには、心の中にある自信のなさや引け目を自分の力で克服することだ。あとは前に一歩踏み出す勇気を持てば良い。要はこの勇気が持てるかどうかだ。人は夢を持つと勇気が湧いてくる。夢を叶えたいという思いが強いほど自らの力で夢を実現しようと実行に移す。夢の実現を誰かがもたらしてくれるのをただ待つだけの人は、夢を実現しようとする意志も、勇気も、行動力もない人だ。変化は自らの強い思いと行動があってこそ起こるのだ。志あれば道は開く。

막걸리(マッコルリ)の語源

막걸리は、朝鮮半島で造られる伝統酒の一つで、主に米を原料とする濁酒です。蒸した米に麹と水を加えて発酵させ、その上澄みと沈澱物を分けずに粗く漉した「あらごし酒」です。막걸리の語源は、막 거르다(粗雑に・大ざっぱに+濾す)で、막걸리は「粗く濾した酒」という意味です。막 거르다(粗く濾す)→막걸러(粗く濾して)→막걸―이→막걸리と変化してきました。白く濁っていることから탁주(タッチュ・濁酒)や탁배기(タッペギ)とも呼ばれています。탁배기の탁は「濁」、배기は「ぎっしり詰まっているもの」を表す語で、白く濁ったものがぎっしり詰まった酒という意味です。かつては夏の農作業の合間に飲む風習があったことから農酒(농주)とも呼ばれています。日本のどぶろくに近い濁り酒で、日本では「マッコリ」と言っています。막걸리は朝鮮で最も歴史の古いお酒で、高句麗時代にはすでに飲まれていて高麗時代の詩にも歌われています。

(朴点水・朝鮮語研究者)

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