在日本朝鮮文学芸術家同盟

〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 8〉

運命の分かれ道(운명의 갈림길)

《朝鮮新報》2020.12.05

コラージュ:沈恵淑

人生には、運命の分かれ道というものが誰にでもある。私も高3の時に人生を大きく変える運命の分かれ道に二度も出会った。

1965年5月28日、東京で朝大生をはじめとする関東地方の8千人の学生によるマスゲーム「祖国に捧げる歌」を観覧して半月ほど経った6月半ばのことだった。朝青京都府本部にすぐに来るようにとの連絡が学校にあった。何事かと思いながら三条京阪の近くの総聯京都府本部に行った。本部に着くと朝青本部委員長から、「明日の朝8時までに東京の総聯中央会館に行きなさい。家には連絡しておくから」と言われた。

その日の夜、京都駅から寝台列車に乗って東京に向かった。8時間ほど列車に揺られて朝の7時頃に東京駅に着いた。その足で飯田橋の総聯中央会館に行った。ロビーで待機していると他の人たちも集まってきた。全員で6人だった。

時間になると会議室のような部屋に案内された。緊張しながら中に入ると大きなテーブルを囲んで正面に韓徳銖議長、その周りに副議長全員がおられた。朝青中央の副委員長、朝青東京都本部の委員長、女性同盟中央の副部長、朝鮮大学校政経学部4年の班長、京都朝高委員会委員長の私と、通訳の朝鮮大学校文学部教員の6人が一人ずつ紹介された。私が紹介された時だった。突然、韓徳銖議長が「トンムは背が低いな」と言われた。会議室にどっと笑い声が起きた。

紹介が終わると韓徳銖議長が「トンムたちは今月末、アルジェリアで開かれる第9回世界青年学生祝典に総聯の代表として参加することになった。団長は朝青中央の副委員長だ。出発するまで準備をしっかりしなさい」と言われた。

「アフリカに行く?! それも間もなく…」。信じられない気持ちだった。当時は、まだ在日朝鮮人には日本への再入国が閉ざされていた時代だった。一度日本を出国すると조선(チョソン・朝鮮)に帰国する道しかない。新幹線の乗車券をもらって帰路に就いたが、いろんな思いが交差して心は波立った。

数日後、準備のため3日間の講習を受けに関東学院に行った。6月19日、2日目の講義中だった。緊急の連絡が入った。アルジェリアでブーメディエンがクーデターを起こして進歩的なベン・ベラ政権が崩壊したというのだ。状況がわからないまま講義はそのまま続けられた。講習が終わると連絡があるまで待機するようにと言われた。

その後、3年が過ぎた1968年、ブルガリアのソフィアで第9回世界青年学生祝典が開催されたことで私たちの代表団の話はなくなった。

私は高校卒業後、京都の朝青の専従として活動するつもりだった。しかし、進路指導担当のソンセンニムとの面談で「トンムは朝青ではなく朝大に進学しなさい」と言われた。少し迷ったが「イエー、わかりました」と答えた。「朝大に行くなら理学部でバイオテクノロジー(生物工学)を学びたいです」と言うと、「トンムは政経学部で学んで京都に戻って来なさい。京都で朝青や総聯の仕事をしてもらいたい」と言われた。もともとそう思っていた私は、二つ返事で引き受けた。

1966年の2月、毎年恒例の朝大受験者による万寿寺での1カ月間の合宿に参加した。入学試験を1週間後に控えた2月末、朝大から来られたソンセンニムが「文学部に入る男子学生を一人追加してもらいたい」と言われた。進路指導教員が他の学生に勧めたが断られたので私を推薦した。こうして入試直前に文学部に行くことが決まった。これが、私の運命の大きな分かれ道となった。

ほんのわずかなことで運命を分けることはありえることだ。私もいくつかの偶然が重なったことで生涯ウリマルと運命を共にすることになった。

クーデターという運命のいたずらによりアルジェリアに行くことも、ウリナラに帰国することもなく朝大の文学部で学ぶことになった。もしあの時、ウリナラに帰っていたなら、もし政経学部で学んでいたなら今頃何をしていただろうかとふと思うことがある。

人は大なり小なり常に運命の分かれ道に出くわしている。その運命の分かれ道に立ったとき、人は幾つかの選択肢と向き合うことになる。ただそれを意識するか否か、それをどうとらえてどの道を選択するかによって違った人生を歩むことになる。そのときに最も良い結果を導き出すためには、私利私欲にかられて人生を選ぶのではなく、人のために何ができるのかを考えることだと思う。祖国の統一や民族のために、同胞のために人生の今この瞬間に自分が最善を尽くせることは何かを考えて選ぶことが大切だと思う。もちろん人は、やりたいことがあるとそれを優先させたい気持ちにかられるものだ。しかし、人にはやらねばならないこともある。やりたいことより、やらねばならないことを考え、それを優先させる道を選ぶには勇気がいる。

自分中心の生き方を「時代の要請に応える生き方」「使命中心の生き方」にかえて、新しい世界を切り開いていくことで歴史の主人公になる。在日の若者たちには、勇気を持ってそんな人生に挑戦してもらいたい。

조선の語源

ウリナラを最初に조선と呼んだのは、檀君が建国したウリナラの古代国家である고조선(古朝鮮)です。本来、고조선を조선と呼んでいましたが後に朝鮮王朝と区別するために고조선と呼ぶようになったのです。조선とは「鮮やかな朝の国」という意味に由来しています。アジア大陸の最も東側に位置するウリナラを古の頃から人々は、「朝日が燦然と輝く美しい国」と呼んでいました。

英語の「コリア」は、高麗王朝時代の1253年にフランスの宣教師が記したモンゴル旅行記と、1271年から1295年まで元の国を旅行したイタリア人のマルコポーロが記した「東方見聞録」に고려(高麗)を「カウレ(Caule)」と紹介したのが始まりです。その後、고려が英語式に発音されて「コリア(Corea)」に統一されました。고려も「山高く麗しい国」という意味です。しかし、ウリナラを支配した日帝はCoreaがJapanより字母順が前にあるからと、1905年7月の「桂―タフト協定」からCをKに変えてCoreaをKoreaと表記したのです。朝鮮民族に対する日本の狡猾で傲慢な民族差別意識の表れだと言えます。

(朴点水・朝鮮語研究者)

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