在日本朝鮮文学芸術家同盟

〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 22〉

教科書編纂事業に参加する(교과서편찬사업에 참여하다)

《朝鮮新報》2022.03.12

総聯は結成後、1955学年度(55~57年)、1963学年度(63~64年)、1974学年度(74~77年)、1983学年度(83~85年)、1993学年度(93~95年)、2003学年度(03~06年)、そして現在改編中の7回にわたって教科書を全面的、または部分的に改編し、教育内容を充実させるためたゆまぬ努力を重ねてきた。

私は、光栄にも全面改編の1993学年度と2003学年度の教科書編纂事業に教科書編纂委員会の国語分科長として関わることができた。

国語分科長に任命されたのは1990年4月である。本格的な教科書編纂の準備をするため、新たに任命された編纂委員が1990年8月に祖国を訪問することになった。私はすでに6月末から3カ月間、文学部の学生を引率して祖国を訪問することになっていたので、その間は両方をかけ持つことになった。

1993学年度の国語教科書の編纂方針は、「朝鮮語を正確に教えることに重点を置きながら、学生たちの年齢心理的特性に合った生活的主題の作品をより多く取り扱う」ことであった。この編纂方針は、2003学年度の改編時にも引き継がれた。

私たちは、初級学校を中心に口語能力を高める方向で改編された1983学年度版の初級部の国語の教科書と中級部・高級部の教科書を、新たな編纂方針に則って全面的に分析し、1993学年度版の国語教科書の改編に取り組んだ。

しかし、最初から編纂委員の足並みが揃ったわけではない。初級学校で口語能力を高めるため1983学年度から導入された文型教育の内容と方法などに関して意見の相違があったのだ。

私は、文型教育の内容と方法について、学生たちの生活場面と、そこで使用されている生活用語などは活かすべきだが、学生たちの思考力や想像力を養えず、興味・関心も引かない内容は修正すべきだと主張した。これに対して今まで通りで良いという主張とがぶつかった。また、初級部で最初から誤字・誤文を教材として扱おうという意見に対しても私は、初期言語教育では正しいことばを教えることが先決で誤字・誤文を教材にすべきではないと主張した。

私は、意見の相違をなくし改編方向の統一を図るため、まず編纂委員の間で編纂方針の意図を把握することに努めた。

討議の末「朝鮮語を正確に教えることに重点を置く」ことに関しては、朝鮮語を正確に教えることができるよう国語教授要綱の内容を科学的・体系的に作成し、それに沿って教科書を編纂するということで一致を見た。また「学生たちの年齢心理的特性に合った生活的主題の作品」については、学生たちの知的興味と関心を引く朝鮮と世界の名作・名文を選択することで解決を図ることになった。初級部では口語能力を高めるために24種類の文型を選定し、それに基づいて学生たちの生活場面や生活体験を反映した会話教材を作ることになった。

こうして編纂された1993年度版の国語教科書は、21世紀における国際化・情報化時代の在日朝鮮人像を念頭に民族的主体性を堅持しながら、保護者のニーズと日本で生活する3~5世の在日朝鮮人子女の実情に合わせた内容に大きく改編された。

しかし、1993年度版の教科書改編では私の統率力と研究不足で、自らの手で教科書作りをするという編纂委員の責任感を最大限に高めることができなかった。そのため、文型を活かした会話文作りや教材の選択などで一部課題を残すことになった。

このような問題点を克服する方向で2003学年度には呉順姫、鄭桂順、許玉汝、金錦順、梁玉出先生や学友書房の国語担当者を含めた20名近い編纂委員の力で教科書の編纂を進めた。

私たちは、民族教育が日本で行われているという現実を踏まえて、どうすれば聞くこと・話すこと・読むこと・書くことの技能を総合的に伸ばせるのか、どうすれば話すこと・書くことの表現力を育てることができるのか、どうすれば豊富な言語知識を正確に教えることができるのか等々を真摯に議論しながら改編に取り組んだ。

民族教育の場で科学的に検証された国語の知識と技能、民族性を培うことは、学生たちに朝鮮人として堂々と生きていく力を育むことにつながる。

私たちは、国語の教科書を豊かな民族性を育むことができるより良い教科書に改編することで、在日朝鮮人子女を民族的尊厳を持った立派な朝鮮人に育てようと編纂作業に腐心した。

こうして2003年度版の国語の教科書は、民族性を備え21世紀の在日朝鮮人社会を継承・発展させていくことのできる人材、北南朝鮮と日本と国際社会を舞台に特色ある活躍ができる高い資質と能力を兼ね備えた人材の育成に寄与する教科書に改編された。

教育内容・学習内容を定めた教科書は、人材育成の質を左右する。良質の教科書は、在日同胞子弟の明るい未来を保証するバイブルである。

(朴点水 朝鮮語研究者)

어린이の語源

어린이は、어린아이をかわいらしく言い表す言葉です。어린이は、形容詞어리다の連体形어린に人を表す이がついた어린 사람(幼い子)という意味の言葉です。しかし、어리다が最初から現在のような意味を持っていたのではありません。어리다は最初「愚かだ、足りない、未熟だ」という意味で用いられていました。1446年に刊行された「訓民正音(解例本)」には「愚かで未熟な人」という意味で어린 백성という例が出ています。「訓蒙字会」(1527年)にも어리석을 우(憂)を어릴 우と記しています。このように어린이は昔「未熟な人、愚かな人」という意味で使われていました。今日のような「子ども、児童」という意味で어린이を最初に使ったのは児童作家の方定煥(1899年~1931年)でした。彼は1923年、朝鮮で最初の児童雑誌である「어린이」を発刊し、その年の5月2日に「어린이날(こどもの日)」を制定して、朝鮮での어린이날運動の普及に努めました。

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